008.須山公美子 / 夢のはじまり (1986)



月あかりが町じゅうぜんぶを銀箔のモノクロにしてしまった下で、裏道にアコーディオンを抱えた女が立っている。聞けば、女はこの裏町の活動弁士だという。お月さまやお星さまが窓ごしに見てきた、いろんな昔ばなしをたくさん知ってるんだよ。おひとりさまだろ。まあ聴いていっておくれよ。あるときは貧しいサーカス小屋の呼び込み嬢、と思えばちんどん屋の女座長、はたまた体が弱く外に出られないピアノ弾き。ちょうど映写機をまわすように、ゆっくり呼吸を置き、彼女たちのはなしを歌い語ってくれるのです。


なんといってもM1「月夜の真空管」ですよ。稲垣足穂のあやしく魅惑的な夜の世界。初めて聴いたとき、真っ先に思い出したのはSlapp Happyの「Casablanca Moon」でした。踊る月光そのもののような弦の響きも似ているし、ダグマー・クラウゼも須山さんもクルト・ヴァイルやアイスラーの歌曲を歌っていたりするので、実際ひな形だったのかもしれません。とにかく甲乙つけがたく映像的で良い曲です。


他の曲はいろいろな役を演じわける感じで、口上・唱歌・ピアノ弾き語りなど様式も移り変わってゆきますが、共通しているのはせまい屋根裏から生まれてきたような清貧なロマンチシズムです。演奏や録音はけして洗練されているとは言いがたいですけれども、それがよりアングラな空気を演出してもいて、悪くはありません。


○月夜の真空管
なんでも斎藤ネコさんのストリングスだそうです。じわじわ歯車がずれていく感じがかっこいい。

007.Milton Nascimento / Minas (1975)


ミナス


昨日に引き続いてブラジルもの、「ブラジルの声」ミルトン・ナシメント。まばたきの瞬間頭突きされそうな、ものすごい顔ジャケですね。クリムゾン・キングの宮殿とお見合いをさせたくなる。


ぼくは漫画家・五十嵐大介の作品が大好きなのですが、ミルトンの音楽、特にこの「ミナス」は五十嵐氏のマジックリアリズム的な世界と繋がっている気がしてなりません。ソウルフルどころかシャーマニックなとんでもない歌の持ち主で、声を発するたびに口から極楽鳥が飛び、足跡からはコロポックル的なものがポコポコ生まれてくるんじゃないかという幻想を抱かせるのです。熱く砂っぽい空気の下、精霊を連れて歩く男の朗々とした祝詞が聴こえてきます。ビートルズノルウェイの森」のカバーも入ってるのですが、絶対ノルウェイじゃない感じになってる。


アンサンブルにはさまざまな楽器が使われていますが、中でも特徴的なのはサックスやフルートをはじめとした管楽器です。野鳥のさえずりのように歌のメロディに囚われることなく自由に飛んできて、濃厚な世界につかの間与える色彩と解放感にはっとさせられます。リズムもパルチード・アルト他のブラジリアンリズムを駆使し、かなり多層的で複雑怪奇。特にM7「Trastevere」以降はずぶずぶ熱帯雨林の奥に引きずり込まれるようで、フリージャズに近い曲想のものも。電気・生楽器の混成部隊を統率しながらもポリフォニックに鳴らす感じはフランク・ザッパにも似ています。そういえば、ザッパさんも寝起きに悪い顔ジャケが多いよなー


○Saudade Dos Aviões da Panair (Conversando No Bar)
やおよろずの祭りっぽい雰囲気。だんだん集まってくる感じがよいです。水は酒に、灯は星になる。

006.Lô Borges / Nuvem Cigana (1981)


Nuvem Cigana


ブラジル音楽においては「サウダーヂ」という感情の表現がキーになるらしい。和訳すると「郷愁」に近いところなのか、あこがれを含んだなつかしさというか、コレクトな日本語があるわけではなさそうなのですがどうやらそんな感じぽいです。


さてポルトガル語もわからないしブラジルに行ったこともない、そんなただの日本人ではありますが、ロー・ボルジェスというこの不思議な音楽家を聴いていると生まれてくるこの感情こそがサウダーヂではないかという気がします。それは一番うつくしい自分の記憶を思い出そうとするような感じといいますか。思い出は過ぎた瞬間から時とともに多少なりとも脚色されていくものですけれど、それをどこかで冷静にわかっている自分もいて、手が届かないもどかしさと哀しさ、そしてだからこそのうつくしさ。説明がまともにしきれないのですが、人の中にある時間の歯車をちょっと押すような、そんな力を持っている音楽だと思います。


独特の浮遊感をもつコード感のギターを中心にしたフュージョン風ポップスで、リバービーな感じとかシンセの音色などはまさに80年代といった趣き。しかし無理してお化粧をしているという印象がまったくありません。曲自体が全曲良すぎるということに尽きるのでしょうけれども、同時にこのロー・ボルジェスという人そのものがキラキラしているように思えます。時の枠組みにすら拘束されず、桃色の觔斗雲にでも乗って歌っているような、どこか浮世離れした永遠の歌声です。そりゃあ、音も必然的にキラキラするよ!みたいな。どこにも力入ってなさそう。実際にお会いしたらちょっと透けてるんじゃないだろうか。



○A Força do Vento
和訳すると「風の力」になるでしょうか。星雲を集めては散らし、さらさら流れてゆきます。

005.荒井由実 / 14番目の月 (1976)


14番目の月


もう曲ならびが壮観すぎる。「14番目の月」「中央フリーウェイ」「天気雨」「避暑地の出来事」と、70年代日本の夏がまるごと詰まっているかのよう。海へドライブするすべての車で聴かれてたのでは…とすら考えずにはいられません。1986年生まれの身としてはこの時代というのは伝説の中にしかないわけなのですが、このアルバムのおかげでいつまでも憧れの対象としてある気がします。


ユーミン暦荒井時代のアルバム4枚はどれも本当に大好きなのですけれども、あえて1枚選ぶとしたらこの4枚目が一歩だけ抜き出ているかなあと思います。この後から「松任谷」になり、これまでの夢見る少女を置いて、名実ともに現実の社会生活の中で輝こうとする一女性としてのキャリアが始まります。ユートピアへの希望が極限まで高まった最後のたまゆらが、時代を超えた誰をも引きつけてやまない無邪気な幻想性につながっています。


バックの演奏も洗練をきわめ、まさに歌伴の理想形。すべての楽器が毎秒幸福に歌い、この世界を描くのに他のアレンジは考えられないと思わせられます。中央フリーウェイとか奇跡。一瞬で夜景だもの。
特にリズム隊は海外のフュージョンプレイヤーを起用していることもあってか、16分音符を多彩な間でハネさせ、まさに波打ち際の水しぶきのようにじゃれています。国内外を問わず、ポップスでこんな一体感はちょっと他で聴いたことがありません。


○天気雨
ベースラインを歌うととてもたのしい。

004.Atoms For Peace / Amok (2013)


Amok


2010年のフジロックで見たAtoms For Peaceは、なぜかトリコロール柄のはちまきを締め、アンガールズ風に着こなしたタンクトップ姿で奇天烈音頭にいそしむトム・ヨークさんの姿が印象的でした。ヒキヲタの最高昇華形態といえるであろうその音圧はとてつもなく暴力的な格好良さがあり、音だし一発目にてグリーンステージがわっと揺れたさまは忘れもしません。*1


その印象からすると、今回いよいよ!とアルバムという形で聴いた感想は「あら、よくおまとめになったのですね」というのがはじめのところでした。なんだか整頓されているというか、そこまでレディへ信者でもない自分にとっては既出のエレクトロニカ寄りに回帰した程度の聴こえかただったのです。


しかし、実はこれは、もともとあった「エレクトロに対する人力(生楽器)での再現」というコンセプトが洗練され続けてきたことでその距離感が狭まり、ぶっちゃけ違いがなくなるほどになったということなのだと思います。もうメカ・人間という対立構造ではなく、新種のミュータント的質感があるわけです。正直もうちょっと解りやすくバッキバキのものが飛び出す期待があったので気づくのにしばらくかかりましたが、これはこれですごいことです。


表面的にはキッドA以降、あるいは他のエレクトロニカ、ポストロック勢の音楽で使われてきたような「あるある」なクラックビートやシンセが聞こえてくるのですけれども、冷徹なサイボーグ的甲殻の内側で虎視眈々とモンスターが爪を研いでいるような緊迫感があり、やはりこれは唯一無二なのではないかと思います。そこへ、お得意のSFぽい荒涼とした空気のなかトム・ヨークの歌がもはや預言者のごとく登場し、フューチャー涅槃とも言うべき終末世界へ案内してくれるという寸法。実はけっこうポップな歌メロも出てきたりして、ほいほい着いていってしまいそうです。ライブのような爆発はありませんが、徐々に血流が加速し細胞が不安に拡張していく快感。結果、かっこいいと思います。(でもやっぱり次はもっとバッキバキのもほしいですください!)


○Judge, Jury and Executioner
奇数拍子っていいよね…!
それにしても、何も知らん人が聴いたらまさかこの抑制の利いたベースを担当しているのが半裸のち半ズボンときどき全裸というスタイルで世界を股にかける前歯がない男*2であるとは到底想像し得ないのではないでしょうか。さすが多才です。

*1:ここまですべてがほめことばです。

*2:http://en.wikipedia.org/wiki/Flea_(musician)

003.Picchio Dal Pozzo / Picchio Dal Pozzo (1976)

Picchio Dal Pozzo


聴いているだけで胸毛が生えてきそうな暑苦しさが売り*1のイタリアン・プログレ一門において、明らかに異質なファンシーさをかもしだすバンド。名前もPがたくさんついててなんだかかわいらしいですね。ジャケットのほうも、手塚治虫のスパイダー(おむかえでごんす)みたいな小さいおっさんが無数に描かれ、「これは珍味ですよ」と言わんばかりで期待が高まります。


いわゆるプログレ的ゴリリズムは控えめ、カンタベリーやレコメンの系列に近い音づくりをしています。シルキーなエレピのきらめきやあくびのような管楽器の音が牧歌的ですらあるのですけれど、のほほんとしながら実はとても緻密に作り込まれ飽きさせません。M3「Seppia」では思い出したようにファズベースを10分ほど暴れさせてみたりする一方、ラストのM8「Off」は印象派のごとき淡い光が溢れるようなアンサンブル。春の田園風景とラーガ宇宙をワープで行き来している心地です。「引き出しの多さ」と「散漫」は紙一重だと思うのですが、このアルバムはよい成功例ではないでしょうか。


○Cocomelastico
ジャズ風の演奏がまどろむように進むのですが、気づいたら聴いてしまっています。オモテ・ウラ拍を左右交互にぺ・ぽ・と鳴らす管楽器がアイデア賞。ゆらゆらと時間感覚が吸い込まれるようです。

*1:イメージです。実際の完成品とは異なる場合があります。

002.青葉市子 / うたびこ (2012)

うたびこ


薄い薄いページを一枚ずつ丁寧にめくり、読み聞かせるように歌う。ところがその相手はこちら側、聴き手ではなく、彼女が携えたギターなのかもしれない…そう思いついたとき、どきっとしてしまいました。少女の鍵つきの日記、あるいは密やかなお人形遊びをほんの偶然から覗いてしまったような、いけないことの感覚を覚えたのです。呼吸の機微、声の箱鳴り、ナイロン弦の倍音まで聴き取れる音場からはその距離の近さや空間の容積が容易に想像できますし、ギターは饒舌で単なる伴奏というよりは独立した、大切なイマジナリーフレンドのようです。ごくシンプルでぽっかり虚なのだけれども濃密といいますか、ひどく整っていて立ち入る隙もない。そのくせ目が合うと大丈夫だよと笑ってくれたりもして、魔性です。


総合的な見せ方がとてもうまい人なのだろうなあと思います。ガットギターと歌だけという構成から毎回無地で統一するアルバムアート、市松人形みたいなルックスまで含めどこか孤高な、拒絶ともとれるイメージを突き立てながら、あたたかいメロディーに詩、更には少女趣味ともいえるブックレットのイラストに親しみを覚える。どこまでが作為で演出なのかは知る由もありませんけれども、曲まですばらしいのだからにくらしい、いやめっぽう素敵であります。


3枚目のアルバム「うたびこ」は従来のフォーマットと気品を守りつつ、もっとも日だまりを感じる作品でした。出だしの一曲こそ五拍子を基調に緊迫感がありますが、続く曲はどれもあたたかく、慈しみにすら満ちている気がします。地蔵並みです。少女は自分だけの小部屋から外へ出たのか?実際、音楽的コミュニティも広がっているらしく、次の一手がとてもとても楽しみな音楽家です。欲を言えば大阪にも足をのばして頂きたいな。


○ひかりのふるさと
伸びてゆく'「ふーーー」るさとへ…'を追って、つい上を見上げてしまいます。